“退屈な永遠より、今ここにある陶酔の瞬間を!”
そう叫んで物質文明の都会を捨て、荒野を失踪した魂の詩人達――
ビート・ジェネレーション。
ロックンロールの反逆の神話が今、解き明かされる。
 
THE BEAT GENERATION AN AMERICAN DREAM  

ジャック・ケルアック ウィリアム・バロウズ アレン・ギンズバーグ グレゴリー・コーソ ニール・キャサディ ローレンス・ファリンゲティ ロバート・クリーリー ダイアン・ディプロマ カール・ソロモン 他 ビート詩人総出演 スティーブ・アレン セロニアス・モンク   ジャネット・フォーマン監督作品 1986年アメリカ 風俗ドキュメンタリー・フィルム   STUDIO VOICE PRODUCE 監修:室矢憲治 字幕:石田泰子 \4500 発売元:M徳間ジャパンコミュニケーションズ

       

 

●原子爆弾という非人間的な殺戮の武器、その巨大な心理的パワーをもとに、 冷戦体制を敷き、全体主義国家へと歩み始めた’50年代のアメリカ。 マスメディアは物質的繁栄を謳歌し、人々は画一的で社会に従順していた・・・ そんな時代に“生のビジョン”を取り戻そうとした若者達がいた!   ●エコロジー、禅、神秘主義、ドラッグ、ジャズ、アメリカン・インディアンを 体験することで「脱日常」と「個の実存」を探求した、カルチャー・レボリューション。   ●’50年代の革新的ジャズマン、チャーリー・パーカー、セロニアス・モンク・・・ ジャズの実験性、即効性を文学に融合し、言葉を活字から解き放った「ビート」は ’80年代のラップの到来を予感させるものであった。   ●ボンゴを叩くジェームス・ディーン。放浪のブルースを歌うディラン、ジャニス。 ’80年代のクールをまとうデビッド・バーン、ジム・ジャームッシュ。 時代を越えたアバンギャルド達はいつもビートの系譜の中に存在している。       ビート・ジェネレーション・ナウ 室矢憲治著       「きみの歩く道は? 聖なる道か、 狂人の道か、 虹の道か、 群れた小さな魚のような道か、 どんな道だ? どんな道でもいい。 どんな人間にも、 どんな風にか道はあるんだ!」    1957年、秋――第三次世界大戦の悪夢を描いた未来小説『渚にて』を 蹴落としてベストセラーのトップに躍り出たのは一冊の不思議な小説だった。 とりたててこれという筋もなければ、構成もない。 しかも文体は詩とも散文ともつかぬまま延々と続く一人称のナレーション・・・。 だが、これまでの文学的常識を全く無視したかのようなこの型破りの“小説”には、 これまで誰も知らなかったような掟破りの青春群像の冒険が描かれていた! その小説のタイトルは『オン・ザ・ロード』。   病んだ文明の象徴、大都会ニューヨークを後に、デンバー、ニューオリンズ、 サンフランシスコ・・・打ちひしがれた“生のビジョン”を回復すべく、 自由と恍惚、生の至福を求めてハイウェイを疾走する一団の ワイルドでクレイジーな若者たち。おしきせのモラルや価値観をふり捨て、 “その時、五感の前にあることをすべて、包み隠さず書く”ことで、 新しい時代のビジョンと真実を模索しようと決意した裸の若者たち。   「クールであれ! ヒップであれ! セックスは神聖なものだ! 個人の感情を、体験を信じろ! 内なるハート・ビートを信じろ! 俺達はこの絶望と至福の時代を生きるビート・ジェネレーションだ!」   ――7年間の放浪生活の体験をわずか3週間で長さ250フィートの ロール用タイプ紙に打ちこんで生まれた、この破天荒で扇動的な小説の出現を前に、 既成の文壇は「あんなものはライティングではない、タイピングだ」と一笑した。 だが、既にエルヴィス・プレスリーとジェームズ・ディーンの登場以来、 大人たちの操作支配するマス文化への不信と反抗の姿勢を学んでいた この時代の若者たちは、もう彼らの言葉をそのままうのみにしようとはしなかった。   さらに、同じ年の初め頃、発禁裁判で、“ワイセツか表現の自由か”をめぐる 大論争を引き起こした一冊の本があった。ケルアックの友人、恋人、文学的同士である アレン・ギンズバーグの詩集『吠える』HOWLである。この書と、 『オン・ザ・ロード』の2冊は“ビート・ジェネレーション”の悪名を アメリカ中に轟かせ、放浪のチャンピオン・ライター、ジャック・ケルアックの 名前は彼らの世代の新しい反抗のシンボルとなったのだった。   *   科学の進歩が産み出した最終兵器、原子爆弾の投下によって 第二次世界大戦の勝利国となったアメリカ。だが、核兵器という 非人間的な殺戮の武器、その巨大な心理的パワーをもとに、 冷戦体制を唱え、共産主義の陰謀――いわゆる赤狩りの名のもとに 個人の政治、思想表現を次々と圧殺していく中で、 50年代のアメリカは巨大な全体主義国家への道を歩み始めていた。   画一化、社会的順応という概念がもてはやされ、 心理学者が幅をきかせ、人前で自分の感じることをありのままに語ることが 奇異な目で見られ、社会の不適格者や異常者と見なされた者は 精神病院に入れられ、放浪者は牢屋にぶちこまれ・・・まさに、 “沈黙は金”の言葉どおり、それはサイレント・マジョリティの時代だった。 また、マス・メディアがいかに 「物質的繁栄を謳歌しよう! 教育、就職、結婚、郊外の芝生付き住宅、車、バーベキュー・・・ 平和で安定した国民生活 American Way of Lifeを!」 とうたいあげてもそれは抑圧的で自由のない時代であり、 目に見えない巨大な力がどこかで操作する管理社会であった。   そんな閉塞的な時代状況に敢然と異議を唱え、風穴をあけるように それまでのアメリカの精神風景を一変すべく登場してきたのが、 ケルアック、ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、 グレゴリー・コーソ、ローレンス・ファリンゲティ、 ゲイリー・スナイダー・・・ あのならず者文学者集団、“ビート・ジェネレーション”の 詩人、作家たちだった。   彼らはおしきせの“アメリカン・ドリーム”からの逃亡者であり、 “共感”に満ちた態度でお互いの旅を見守り、刺激、影響を与えあった。 そして自己の体験をもとに――同性愛、麻薬、黒人音楽への傾倒、 仏教や禅、アメリカン・インディアン・・・これまで異端、 タブー視されていたあらゆる“神秘”の扉を解き放ち、 常識の枠を打ち破った“聖なる野蛮人たち”であった。   ケルアックの華々しいデビューとともに、次々と出版、 刊行される彼らの作品。次第に彼らに対する関心と評価は高まっていった。 「アメリカの文学史上、最初に現れたもっとも生命力に満ちあふれた文学世代!」 とニューヨーク・タイムズ以下、マスコミがビートを称賛しはじめ、 こぞってグリニッチ・ヴィレッジ、あるいはサンフランシスコの ノース・ビーチのカフェにたむろするボヘミアンたちのシーンを取材しはじめた。 しかし、当の運動の名付け親であるケルアックは、 もう声高にビートを定義しようとはせず、吐き捨てるようにこんな発言をしていた。   「ビート・ジェネレーションとは何かって? なあに、街角でたむろして 世界の終末についてお喋りしているガキたちのことさ」   *   数年後、街角でたむろするそのガキたちの中から、 ボブ・ディランというロック詩人が現れ、 ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリン、グレイトフル・デッド、 トーキング・ヘッズ、トム・ウェイツ、R・E・M・・・ 一握りのならず者詩人たちが見た“ジェネレーション”の夢が、 60年代のヒッピー世代へ、70年、80年代の心ある詩人、 ソングライター、アーティストたちの手へと確実に受け継がれていった。   *   そして90年代に入りライノ・レコードから発表されたケルアックの朗読CD 『ジャック・ケルアック・コレクション』(’90)。また同じライノから 出た3枚組CDの決定版『ビート・ジェネレーション』(’92)。 さらにはクローネンバーグ監督によって劇場映画化された、 あの幻覚貴族、ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』・・・ このところ、ビート神話の復活はちょっとしたブームのようである。   そんな気運の中でいよいよ日本でも発表されることになった このドキュメンタリー・ムービー『ビート・ジェネレーション』。 これは登場人物の数、50年代の数々のフィルム・クリップを加えた構成、 ひとつに限定されず多面的に捉えた視点、さまざまな意味で、 これまで発表されたビート研究フィルムの中でも出色の作品だ。   監督のジャネット・フォーマンは1950年生まれで、 既にコカ・コーラのCM作品などで有名な、 コマーシャル畑では指折りの女性映像作家。 女性監督ということのせいだろうか、制作ノートによると 「撮影中、もっとも辛い思いをしたのはW・バロウズ。 ほとんど喋ろうとしてくれなくて、冷や汗が出たわ・・・」云々。 だが、ダイアン・ディプリマ、アン・ウォルドマンら ビート第一、第二世代の女性詩人たちからは、 男性主導で、女性には冷たかったビート・ムーブメントへの 告発的証言も聞ける。また、あれほど50年代、それ以後の時代への 衝撃と大きな影響力を与えた“運動”でありながら、 その渦中にいた人々の、定義、評価がくい違っているのも実に興味深い。 しかし、それがまた個人の解放を目指して始まった、 この自由奔放なジャズ・シャッフル的意識革命“ビート・ジェネレーション”の ユニークさでもあるのだろう。   *   加速度的に世界の終末に向けて転げていくかのような90年代――こんな 透明で混沌とした時代だからこそ、僕らはもう一度、 ひとりひとりの内側にある“荒野”に向けて、 裸の視線を送る必要があるのではないだろうか? 「きみの歩く道は?」 ――ビート・ジェネレーションの兄貴たちの問いかけは、 遥かな昨日の神話の中で、死滅してしまってはいないはずなのだから・・・。      
室矢憲治著「ビート・ジェネレーション・ナウ」 より全文引用
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